モンゴルの歴史年表
紀元前750000年: 人間はモンゴルの土地に住み始める。 紀元前 750000-100000: 紀元前100000-40000: 旧石器時代 紀元前40000-12000: 中旧石器時代 紀元前12000-4000: 新石器時代 紀元前4000-1000: 青銅器時代 紀元前2000: 人類が動物を飼い始めた。 紀元前1000: 鉄器時代 紀元前8-6世紀: 部族による支配時代 紀元前6-3世紀: 万里の長城は、中国の漢族と匈奴との境界として建設される。 紀元前3-1世紀: 最初のモンゴルの匈奴による帝国が存在。 紀元前1世紀から西暦320年: 第2期モンゴルの鮮卑による帝国時代。 330-402年: 第3期モンゴルの 柔然帝国時代。 555-745年: 最初の突厥民族による帝国時代。 745-840年:ウィグル帝国時代。 840年: 強力なキルギス遊牧民は中央アジアに進出。 10-12世紀: 契丹帝国時代。 12世紀: 全モンゴル部族の成立。 1162年: 未来のチンギスハーン、テムジンが全モンゴル部族の王子として誕生。 1170年: テムジンはホンギラド部族のボゥルテ姫と婚約。 1177:テムジンはボゥルテと結婚。 1179年: テムジンはゴルバンメルギド部族との戦争で勝って、彼の最初の息子Zuchi(ジュチ)誕生。 1183年:テムジンの次男Tsagaadai(ツァガーダイ)誕生。 1183年:三男Ogoodei(オゴーデイ)誕生。 1189年: テムジンはモンゴル帝国の皇帝となり、Chinggis Khaan(チンギスハーン)の称号を得る。(海の皇帝) 1193年: チンギスハーンの第4息子Toului(トルイ)誕生。 1206年:チンギスハーンが大モンゴル帝国の大ハーンとなる。 1206年: ウイグル文字(伝統的なモンゴルの立て文字)はモンゴルの公式な文字となる。 1206年: モンゴルは騎手の肖像が刀を振り回すのを示すコインを製造。 1215年:チンギスハーンは中国征服。 1219年:チンギスハーンは南部の国々を征服。 1220年:Kharkhorum(オロホンバレーに位置するカラコルム市)がチンギスハーンの連携で大モンゴル帝国の首都となる。 1224年:チンギスハーンはアラビアの中東の西側諸国、インドにも侵攻を始める。 1227年チンギスハーン薨去。 1228年:王座をOgoodei(オゴーデイ)が引き継ぐ。 1234年:オゴーデイハーンはortoo(ウルトゥー)馬リレーによる駅制度、情報伝達システムを確立する。 1235年:Tumen Amgalant(大冷静)宮殿がカラコルム市に落成。 1236年:オゴーデイハーンの発案により、お札を通貨として採用。 1240年:モンゴル秘史が完成。 1235-1259年:カラコルム市の構造が完成。 1246年:チンギスハーンの孫、オゴーデイハーン(王様)の長男Guyug(グユグ)がハーンとなる。 1251年:チンギスハーンの末子トルイの長男モンフがハーンとなる。 1260年:チンギスハーンの孫トルイの末子Arig Bukh(アリグブフ)がハーンとなる。 1261年:アリグブフとフビライ(チンギスハーンの孫、トルイの次男)の間に行為をめぐっての戦争勃発。 1270年:フビライハーンはユアン(Yuan)ダイナスティの首都、地区、県それぞれに学校を建設。 1274年:フビライハーンは初めて、日本を攻撃。 1305年:偉大なモンゴル人の哲学者チョイジ-オドセルは彼の有名な著書"ズルヘントリト"を脱稿。 1368年:モンゴルは中国から追い出され、元帝国が崩壊。 1369年:元帝国の歴史書が書かれる。 1370年:カラコルムが再びモンゴル帝国の首都となる。 1382、1408、1439年:モンゴルは、モスクワを攻撃。 バトモンフがハーンとなる。 1577年Altan Khaan(アルタイハーン)とAbtai Khaan(アブタイハーン)は仏教を受け入れる。 1586年:モンゴル最初の仏教寺院エルデネゾー寺院を建設始まる。 1616年:モンゴルで初めて外国大使館、ロシア大使館が開かれる。 1635年:ズーンガル(モンゴルの東部)州が設立される。 1636年:内モンゴルは満州(清)によって奪われる。 1671年:ガルダンがズーンガル州のハーンになる。 1686年:ザナバザル活仏様が(モンゴル最初の活仏)ソヨンボ文字を完成する。 1688-1697年:ハルハモンゴルとモンゴルの東部州が戦かう。 1691年:ハルハモンゴルは満州(清)帝国に自治を明け渡す。 1754:満州(清)は東モンゴルの州を奪い、モンゴルを完全に制圧する。 1754-1911年:全モンゴルは満州の植民地となる。 1778年:モンゴル首都イフ・フレー市が現在のウランバートル(現代の首都)市が位置しているトール川の谷に移動して来る。 1911年:モンゴルの君主政治は第8ボグド(活仏)を指導者として行われる。 1913年:モンゴルにおける最初の新聞発行。 1919年:中国がモンゴルに侵入。 1921年:モンゴルの独立がソ連の助けによって実現する。 1924年:モンゴルは君主政治を廃止し共和国となる。 1937年:宗教活動は禁止され、ほとんど全てのモンゴルの寺院が共産主義者によって破壊される。 1990年:民主党の革命、共産党員政権の失脚。 1996年:モンゴル民主連合が初めて議会の選挙で勝利。
古代のモンゴルの州
最初のモンゴルの起源は紀元前209年にフン族か匈奴の人々によって作られた地域にあります。 匈奴という名前は2つの古来のモンゴルの単語に由来します。 フン族の、Hunはやれやれという意味、そしてNuは太陽という意味を持ちます。 フン族の最初の王はモドゥン シャン ユイで、彼の父親はフン族の最も有力な部族の指導者でした。 フン族の領土は南シベリアで極東の韓国から北中国の天山山脈まで万里の長城の南の地点からバイカル湖まで伸びていました。 紀元前200年から98年の崩壊まで、フン族は不規則に広がっる中央アジアのステップと山の中に住んでいる最も強力な遊牧的な国でした。 しかし、強力な指導者の間の内部紛争で衰弱し、300年間の優位の後にフン族の支配状況は崩壊しました。 フン族支配崩壊後、幾多の野心を持つ一族が1200年まで彼ら自身の小国家を設立し、モンゴルの領土を支配して来ました。 フン族の崩壊の後の最初の国は鮮卑によるものでした。(その国は紀元前3世紀まで続きました)。 柔然は、西暦250年に最終的に鮮卑を征服、多くの部族の同盟国と共にそれ自身の国を確立しました。 次に、柔然は突厥によって破られました。(柔然は止むを得ずモンゴルを552年にTureg Kingdomを設立したトルコの部族にその領土を引き渡しました)。 何千人ものトルコ系民族が4世紀にアルタイ山脈を通って西の地方から入って来しました。 それらは、古代の封建的なシステムで統治を行いましたが、また、それら自身の内部の抗争で破滅していきました。西暦745年。 ウィグル族の部族は、次に中央アジアで最も強力になりましたが、モンゴルの全体を支配できませんでした。 907年にモンゴルを征服したのは、契丹族でした。(その契丹族は平和に前のいくつかの現地の部族と共存する方法をとりました)。 彼らの支配は多くの中央アジアの部族が同時に侵入した12世紀まで続きました。 当時秩序が全くモンゴルになくなり、この広大な領土は戦争のために分割統治をされていくことになりました。
モンゴル帝国
世界中にチンギスハーンという名で有名なテムジンが1162年に誕生しました。彼の父親エスヘイは当時多数あった一つの部族の指導者であり、テムジンが9歳のころ他の部族の一つタタル族によって殺されました。 彼の父親の友人のサポートで、テムジンは1189年に偉大なモンゴル人の小国を建設しました。 1206年までに彼は、81の異なったモンゴルの部族を連合させ、すばらしいモンゴルの帝国を建国しました。(その時、彼はチンギスハーンとして推戴されました)。 チンギスハーンは1227年に薨去。その後モンゴル帝国の皇帝は何世代もチンギスハーンの子孫から選ばれて来ました。 13~14世紀に、モンゴルは経済、文化、兵力、および政治に関して発展しました。 それは多くのアジア、そしてヨーロッパの国を取り込んだ巨大で、不規則に広がった帝国でした。モンゴルの歴史の黄金時代としてまだ知られており、この間モンゴル帝国は世界一強力な国でした。チンギスハーンは、偉大な軍人として、また政治家としてもモンゴル人の国民的英雄でした。 モンゴル帝国は1368年に崩壊し始めました。 これはモンゴルの元王朝の崩壊です。(フビライ・ハンがモンゴル帝国の新しい首都として北京を指定して以降王朝は中国国内にありました)。 満州は1691年にモンゴルを征服しました。そして満州植民地化で220年間満州による植民地化が続きました。 20世紀にモンゴル人が、民族解放のための戦いをはじめました。最終的に民族解放は1911年12月に実を結びました。 その時、満州は引き下がりモンゴルの独立はウルゴー当時のウランバートル市)で宣言されました。そしてモンゴルの君主政治の指導者として第8代(最終の)ボグド(活仏)ハーンにその権限を与えました。
社会主義時代のモンゴル
1921年7月11日、モンゴルにおいて社会主義革命が怒りました。1924年にモンゴルの人民革命党は、モンゴルが人民共和国であると宣言しました。 議会は共和国の最初の内閣を承認し、モンゴルが旧ソ連との強い関係を維持して以来、社会主義の時代は1990年まで続きました。(民主的な変化はその時、ロシアとの関係を持っていた国々の中で最初に、モンゴルで始まりました)1990年に、モンゴルの元共産主義旧ソ連共産党政治局は辞職し、複数政党による議会制度が始まりました。国の最初の複数政党による選挙は1990年6月に開催されました。 新議会は1992年1月にモンゴルに最初の民主的な制度を採用しました。この制度は大統領と共に働く民主的な共和国議会とモンゴルを定義しました。議会議員と大統領の両方が国民により直接選出されなければなりません。これらの政変の間、モンゴルはゆっくり古い中央計画経済から距離を持ちながら、離れている自由市場に向かって道を開いていきました。
教養
モンゴルの生き方は、遊牧民的であり、緊密に動物(家畜)と結びついています。 都市化にも係わらず、ステップの伝統は生き続けています。 都市にさえ、ほとんどのモンゴル人がゲルを建て住んでいます、容易に動くことができて、普遍的な形を持っている大きくて、白いテント: ドアはいつも南に面しています。 西の後部の方に、お客さんのための場所が設けられています。 ゲルの後部(khoimor)は、年長者のための場所であり、ほとんどその家にとっての大事な品々が置いてあります。 そしてまた、後部には壁が仏様、家族写真、およびスーツケースがある仏壇になっています。多くの伝統的で、宗教的な信仰に基づいた物が置かれています。地方によって異なる信仰のあり方については、詳しい資料をご参照ください。 信仰は古く、また深いものです。 一生に一度、敬虔なチベット仏教の信者であるモンゴル人は拉薩に巡礼したいと考えています。 チベット人は、彼らのパワーに耐えるために順番に様々なモンゴルの部族に頼りました。 1921年の共産主義に移行した頃のモンゴルには、およそ700の修道院に住んでいる11万人程のラマ僧がいました。 1930年代から逮捕され、シベリアの強制労働収容所に送られ、何千人もの僧がどのようになったかは誰にも分かりません。 修道院は閉鎖され、また破壊されすべて宗教と崇拝が禁止されました。 1990年に信教の自由が回復しまして以来、仏教(他の宗教も)の驚異的な速度で復活してきています。 元の共産党の職員の中にさえ修道院が再び復活した後ラマ僧になった人もあります。 修道院や寺院には、チベットの名前がつけられたところがいつもあります。モンゴルのはるかに西方の領域のスンナ派の宗教を信仰する少人のカザフ民族もいます。 モンゴルの絵、音楽、および文学はチベットの仏教と遊牧文化に影響されています。 “ツァム”ダンスは、悪霊を追い払うための踊りで、遊牧とシャーマニズムによる影響を受けています。 共産主義の間禁止されてい他者が、再び復活し始めています。 伝統的な音楽はさまざまな楽器と唄によって校正されています。 モンゴルの“ホーミー”喉歌では、しっかりと訓練された男性の声は喉の深いところから高低2種類の音をを発声します。社会主義の時代になり、伝統的なモンゴルの歌舞音曲がソ連の影響を受け変化してきました。それが現代の音曲の基礎となっています。 モンゴル語(公用語)はアルタイ語系の言語です。モンゴル国の90%でモンゴル語が話されており、残りの10%ぐらいはカザフ語が話されています。またモンゴル語は中国の内モンゴル自治区のモンゴル族の人々、ロシアのブリアート共和国、カルマイク共和国に生活しているモンゴル族で話されています。韓国語、日本語と同じく名詞が文章の最初に、動詞が文書の最後に置かれます。1944年以来、ロシアのキリル文字はモンゴル語を書くのに使用されています。 国では膨大な文学が製作されましたが、ほとんどそれらはヨーロッパの言語に訳されていません。最近になってもモンゴルの日の偉大さを祝うすべて(Mongoliin Nuuts Tovchoo“モンゴル秘史”)を翻訳した程度でした。
宗教
チンギスハンによって始まった国の宗教としての仏教の面白いところとして:彼は仏教徒であるウイグル陣を教師や国家の官吏として雇用しました。ウイグル人は尊敬される存在であり、モンゴルに対し偉大な文化の影響力を持っていました。チンギスハンもまた彼が統治をする時代に仏教の指導者達と会議を催しております。彼の意思として、彼の後継者オゴタイハン教育のためカラコルムにおいて仏教行事を行うチベット僧を招きました。このことはカラコルムにおいてシャーマンの活動を許すこととなり、汎神的なシャーマニズムはモンゴルの伝統的な信仰となりました。 仏教はフビライハンが法律を作るまで完全に国教となっていたわけではありません。彼は仏教が元朝の公式宗教にすることを宣言しました。フビライハンはラディジャrツァン僧を国家の精神的なリーダー、また国家の師と任命しました。僧達は正式に軍役に就くことはなく税金の支払いを免除されていました。フビライハンのそれらの努力にもかかわらず、仏教はモンゴルで広く受け入れられる宗教とはなりませんでした。仏教は貴族達の宗教でチベット帝国の風下につくものであとされ、仏教は支持を失いシャーマニズムが16世紀中頃までに復活してきました。 16世紀後半、ラマ教の黄帽派がモンゴルで力を持ってきました。ラマ教は社会的にも政治的にも受け入れられるようになってきたのです。政治的な理由として(1)モンゴルの貴族達は彼らの地位を宗教の形態を借りてあげようとし、(2)ラマ教の黄帽派はモンゴルのルールの中で赤帽派との対抗するため連携を深める方向を模索していましたし、(3) 中国の明朝は好戦的なモンゴル人民を鎮圧するのにラマ教を利用しようと考えていました。 1577年にアルタンハンはチベット仏教によってモンゴルを統一したいと考え、チベットの宗教指導者をモンゴルに招待しました。アルタンハンはシャーマニズムの実践を廃止する法的基礎つくりのため、仏教の信条を法律に組み込もうとしました。アルタイハンの運動は1586年に第3代ダライラマに面会したアブタイサインハンによって引き継がれました。この会談でモンゴルのラマ教の中心としてカラコルムにズー寺院を建設することが決定されました。その後すぐにモンゴルラマ教のリーダーであるザナバザルの基、ラマ教のための寺院や学校が開設されました。ザナバザルはこつこつとラマ教を貴族や一般民衆に分けず全ての人々に広げる努力をしました。ラマ教は200年もの間、またはモンゴルに人民革命が起こるまで人に受け入れられていきました。 所謂モンゴルの"左傾"として知られる期間(1929-1932)に僧侶を労働につかせるために寺院から出しモンゴルの労働力とした結果として、300以上もの寺院が閉鎖に追い込まれました。いくらかの僧侶達は宗教的迫害の恐怖から去り、1932年に一度だけ寺院に帰ることができましたが、それは新しい動きの始まりのときでした。すなわちそれは心境、教育、布教に関する動きでした。1936年までに767寺院、(2929年から2932年までに閉鎖された300以上の寺院を含む)、また10万人以上の僧侶、(モンゴルの左傾の時期に増加した1万人の僧侶を含む)が存在していました。当時、成人の僧侶は男性人口の40パーセントを超えており、それは社会主義国としては問題でした。 1930年代半ば、共産党は政府に対する政治的暴動の風説は寺院内に根付いているとして組織としての教会根絶の手段を打ちました。そのとき僧侶は寺院を去り俗人の生活に戻るように強力に圧力を受けました。1938年までに2万人以上の僧侶が牧民となり、5千人は政府の協力者となり、また若い僧侶達は徴兵され子供の僧たちは彼らの家族に帰されました。そのほかの僧侶は?多くは1930年代半ばの寺院焼払いや爆撃の犠牲となりました。1937年は何百もの寺院が破壊され、何万冊もの仏典が焼き捨てられ、更に10万人以上の僧侶が俗人に戻るよう迫害されるか殺され、モンゴルでも最悪の年と言われています。 それからの40年以上はモンゴル人は恐怖の中で信仰を守っていました。年長の仏教者、大体100人ほどの僧侶、は中央寺院であるガンダン寺へ、40人ほどの僧侶はゴビの寺院参詣を続けました。若い人たちの信仰はは家の中でひそかに行われたり、一緒に集まっての行動はやめられてしまいました。 今はモンゴルは独立国家で、仏教は復活してきています。若い男性僧侶は仏教学校に通い1930年代に還俗を強制された僧侶足しも寺院に戻りもとの信仰生活を行っています。1990年ウランバートルに女性の寺院が20人の女性仏教徒のグループにより開かれました。 いずれにしましても、宗教面で静かになることはないようです。それは宣教師達が国中に散らばり、モンゴル人を西洋の宗教うに改宗させようと活動しています。
202 room, 2F Bridge Plaza Building, Bayanzurkh District Ulaanbaatar 51, MONGOLIA